2016年5月21日土曜日

麻績王(おみのおう)

麻績王

麻績王(おみのおう、生没年不詳)は、7世紀末の皇族麻続王麻積王とも称される。

出自をめぐって大友皇子天智天皇の太子)、美努王橘諸兄の父)、柿本人麻呂など諸説ある。また、年代的に無理があるが、聖武天皇の別名ともいわれる。

日本書紀』には、675年5月17日(天武天皇4年夏4月18日)の条に天武天皇によって「三位麻続王に罪あり、因幡に流した」とあり、この他に『日本書紀』には、麻績王の子の1人を伊豆諸島伊豆大島流罪にし、もう1人を血鹿嶋(長崎県五島列島)に流罪にしたとある。また、『万葉集』巻第一では伊勢国の伊良虜の島(愛知県渥美郡伊良湖岬)に流罪されたとある[1]。さらに、『常陸国風土記』には常陸国行方郡板来村西の榎木林に居らせたとあって、流罪先も諸説ある[2]

『万葉集』には、伊勢国の伊良虜の島に流された麻績王の事を悲しんだ人が「打麻を 麻績王 白水郎(海人)なれや 伊良虞の島の 珠藻刈ります」と歌ったのに対し、麻績王が答歌として「うつせみの 命を惜しみ浪にぬれ 伊良虞の島の玉藻刈り食む」と詠んだというの和歌が伝えられている。

なお、鳥取県鳥取市国府町岡益にある梶山古墳は麻績王の古墳であるともいわれてる。

  1. ^ 麻績王の皇女が、忌部子人の子弟に降嫁しており、忌部子人のとりなしによって、遠流にならずに伊勢神宮のある伊勢国流罪に決まったとする説もある。
  2. ^ 壬申の乱で、大友皇子側についた事が原因で流罪に処されたとする説もある。

2014年7月19日土曜日

世に棲む日々 司馬遼太郎著 メモ

少彦名神が道後の湯(道後温泉)に浸かり、病苦が去って全快したときに叫んだといわれている言葉
「マシバシ イネツル カモ」
マシバシ=しばらく
イネツル=寝(いね)つる

しぱらく寝ていたようだなあ
という意味

2014年4月7日月曜日

新選組隊士 斎藤一のこと メモ

中村彰彦 エッセイ
弘化元年(1844)元旦生
文久3年(1863)新選組結成

白虎隊記念館(会津若松市)に羽織りと肖像画が所属されている
明治政府樹立後会津藩と共に斗南へ移住
後、東京へ
元会津藩大目付高木小十郎の娘時尾と結婚
正仲人は藩主松平容保
下仲人は家老山川浩、佐川官兵衛
容保より藤田の姓を賜る
大正4年9月28日逝去
享年71才

2014年3月7日金曜日

王城の護衛者 メモ

司馬遼太郎著

会津藩入京
文久2年12月24日
午前10時頃鴨川到着
黒谷の金戒光明寺を本陣とする
浄土宗の一本山で境内は城塞のようだった
幕法により諸藩は京都を通過するのを禁止していた為京都に軍隊が入るのは江戸開府以来約300年振りのこと

2013年3月30日土曜日

1498年 午年

1498年
年号:明応7年
干支:戌午(つちのえうま、ぼご)

誕生

1497年 巳年

1497年
年号:明応6年
干支:丁巳(ひのとみ、ていし)

誕生

1496年 辰年

1496年
年号:明応5年
干支:丙辰(ひのえたつ、へいしん)

誕生